『G線上のアリア』の名の由来。
それは、4本あるヴァイオリンの弦のうち、1本の弦だけで弾くことのできる曲だから。
G線とは、ヴァイオリンの最低音域の弦を指す。
ただ、作曲者である“音楽の父”ことJ・S・バッハは、そんなことを想定していなかった。
最初の名だって、『管弦楽組曲第三番』と言うんだもの。
けれど、曲の書かれたおよそ100年後、アウグスト・ヴィルヘルミという一人のヴァイオリニストが、そんな編曲をした。
そして生まれたのが、ヴァイオリン独奏曲『G線上のアリア』。
観衆からすれば、とても興味深い楽曲だったことでしょう。
ヴァイオリンの1本の弦だけで、あんなに美しい旋律を奏でられるんだもの。
話題性は十分。ヴィルヘルミは有能だった。
けれど、私は思うの。
——なぜ、そんな残酷なことをしたの?
D2との戦闘が連日続く、オーストリアの山岳地帯。
なだらかな山麓部に設営されたムジカート用テントの中、折り畳み式の固い野戦ベッドの上で、私は目を覚ました。
「ぅ……うぅん…………」
身体が重くて死にそう。
寝汗でひどくべたついた。
いっそ死んでしまった方が、この檻のような身体から解放されて楽になれるのにって、そんなことを思ってしまう。
「お薬……飲まなきゃ」
こんなに気分が悪いのは、薬が切れているからに違いない。
ベッドで横になったまま、サイドデスクの上にある錠剤の瓶と、起きたらすぐに飲めるよう寝る前にあらかじめ半分ほど水を注いであったグラスに、よろよろと手を伸ばす。
特別に処方してもらった、心を安定させるための薬。
連日の戦闘続きのせいか、また効かなくなってきてる。
一回3錠と言われている薬を、手のひらにザラザラと流し出すと、一気に口へ放り込んだ。
水を呷って胃に薬を流し込み、またベッドに倒れ込む。
「うっ……うぅ…………」
布団を顎までかぶった途端、涙がポロポロ零れてきた。
「さみしい……」
どうして私はこんなにひとりぼっちなんだろう。
ムジカートとして目覚めたときから、ずっとそんな思いに取り憑かれている。
さみしい。
世界に私ひとりだけ。
呼吸が苦しくて、まるで私のための空気さえ用意されてないみたい。
陰鬱で、惨めな気分。
誰も私を見つけてはくれない。
ヴァイオリン独奏曲『G線上のアリア』。
1本の弦だけで演奏できる特殊なアリア。
わかってる。
だから私はひとりぼっちなんだ。
そんな孤独でさみしい楽譜(スコア)をこの身に宿しているんだから。
なぜ独奏なの?
なぜ1本の弦しか使わないの?
だから私は、他の誰とも響き合えないんだ。
「うっ……うぅっ…………!」
悲しい。悲しいわ。
私がなにをしたって言うの?
思うほどに泣けてきて、うつ伏せになり、枕に顔を埋めた。
私の中には、歪められた孤独の旋律が流れてる。
たとえ私が前向きになったって、不協和音が響くだけ。
私は孤独であることを運命づけられてる。
ねぇ。
みんなが大好きな“音楽の父”は、私がこんなに苦しむことを望んでいたの?
すると、やたら居丈高な足音が、私のテントへ近づいてくるのが聞こえてきた。
私がそれに気づくやいなや、テントの入口が勢いよく開かれた。
「『G線上のアリア』! いつまで寝ているんですの!? わたくしより長く寝ているなんて、教育が足りないようですわね!」
この声は、『シバの女王ベルキス』。
どうして私のところになんか来たの?
どうしてこんなに苦しむ私に、そんな高圧的な声を聞かせて、目が眩むような朝日を浴びさせるの?
私は布団を頭までかぶって、泣き言を言った。
「つらい……つらいわ。私は眠ることさえ許されないんだ。ひどい……」
「もう十分寝たでしょう! 朝の配給に間に合わなくなるから、せっかく呼びに来てあげたというのに!」
「それならもっと優しく起こしてほしかった……。寄り添って、静かに頭をなでて、温めたミルクと焼きたてのバウムクーヘンを用意してほしかった……」
「あなた何様ですの!?」
そんな話をしていると、またテントの入り口に、別の誰かの気配がした。
ベルキスとは違って、物静かで、穏やかな湖のような気配だった。
「やっぱりここにいた。……って、また泣いてる。配給、もう終わっちゃったよ。アリアの分を少しくすねてきたけど、いる?」
声の主は『月光』。
ベートーヴェン作曲の幻想的なピアノソナタを身に宿したムジカート。
相変わらずの落ち着いた声音で、聞いているとなんだか落ち着く。
いつもなにを考えてるのかわからなくて、つかみどころのない子だけど、その近くもなく遠くもない距離感は、一緒にいて楽だった。
だけど……。
「うぅ……私が起きるまで待っててくれてもいいのに。やっぱり私は世界に必要とされてないんだ……。決めた……このまま餓死しよう……」
布団から少しだけ顔を出し、また泣き出した私を見て、月光は小さく肩をすくめて見せた。
そしてそのまま、私のために持ってきたという糧食のプロテインバーを自分でポリポリかじり始める。
いいけど……いらないから別にいいけど……。結局ムジカートは餓死もできないし……。
その隣にいたベルキスは、「付き合っていられませんわ」と首を振り、ため息を残して出て行った。
そして、ベルキスと入れ替わりに、また別の誰かがテントへ入ってきた。
それは、『ダフニスとクロエ』だった。
「あのう……アリアさん? 今日はこれから雪なので、外に干しっぱなしの洗濯物を取り込んでおきましたけど……いいですよね?」
上目遣いで、おずおずと。
引っ込み思案で、おどおどしがちな彼女は、いつもそうやって私に尋ねてくる。
彼女は、朝からベッドの上を動いていない様子の私を見て、察するようにこう続けた。
「お腹……空いてますよね? えっと……私の分でよかったら、食べますか?」
そして、ベッドのそばまでやってきて、ぐすぐす泣いている私の顔の前に、プロテインバーを差し出した。
包み紙を丁寧に破いて、食べやすいように私の口元へ寄せてくる。
「ご飯はちゃんと食べた方がいいですよ? ね? あーん……」
まるで子どもでもあやすみたいに。
彼女がそんなことをするから、私はまた泣けてきてしまった。
「うっ……うう……」
「な、な、なんで泣くんですか……? こ、こんな食べさせ方、やっぱり失礼でしたか……!?」
ポロポロポロポロ。
次から次へ涙が出てくる。
慌てる彼女をよそに、私は言った。
「みんなが……優しいから……」
どうしてみんな、次から次へ私のところへ来てくれるの?
私の世話を焼くために。
こんな惨めな、私のために。
すると、『ダフニスとクロエ』がほっとしたように言った。
「よかった……落ちついてきましたね。お薬が効いてきたんでしょうか? ほかにしてほしいことはありますか?」
「……ダフクロが優しいよぅ……。ねえ、私と結婚してくれない?」
「ふぇっ!? そっ、そんな! 私なんてアリアさんにふさわしくないですよ〜っ!」
あわてて、首と両手を同時に振るダフクロ。
その少し後ろで月光が、「そもそも結婚はできない気がするけど」と冷静につぶやいた。
一方、私はダフクロの恐縮する態度を見て、瞳をスッと曇らせた。
「断るなんて……やっぱり私のことが嫌いなんだ……今すぐにでもいなくなれって思ってるんだ……」
優しくするだけ優しくして、私をひとりじゃ生きていけないようにした後に、はしごを外すみたいにまたひとりぼっちにするんだ……。
「ち、ち、違います! そんなこと思ってませんよ!?」
「嘘だぁ! きっとみんなそう思ってるんだぁ! 私なんて、私なんて〜!」
「あわわわわ……。そ、そうです! アリアさん! いいお知らせがあるんでした! 私、さっき未来を見たんです! 希望の光が目覚めるって! そして、その光が私たちを導いてくれるって!」
「希望の光……?」
「は、はい! まだ、どこの誰かもわからないですけど、きっと、その人がアリアさんの味方になってくれるはずです!」
私の味方になってくれる人……?
この哀しい独奏者(わたし)に、ついに伴奏者が現れるというの?
いえ……違うわ。
きっとその人は、この暗い世界から私を連れ出してくれるコンダクター……!
閉じ込められた暗い檻の中に、光が差し込んだ気がした。
さっきまでの重たい体が嘘みたいに軽くなる。
私は勢いよく布団を跳ねのけ、ベッドの上に立ち上がると、両手をぎゅっと握りしめた。
「それなら私は、その人のこと生涯守り続けるわ! ダーリン!」
「きゅ、急に人が変わったみたいに!? お薬効きすぎじゃありませんか!?」
「さあ、起きましょう! 今日はベルリンから応援部隊がやってくるのよ! はっ! もしかしたらその中に私のダーリンがいるのかも!?」
月光がテントの柱に背を預けて、「どうせ薬を倍くらい飲んだんじゃない?」と言った。
残念ね! 5〜6倍飲んだわ!
おかげで元気が出てきた!
「そうだわ! テントもクリスマス用に飾り付けましょ! やっぱりクリスマスはみんなでお祝いしなきゃ! 私、材料を取ってくるわ!」
「ま、待ってください! 完全にハイになってませんか!? アリアさ〜ん!」
私はテントを飛び出した。
とっても足が軽いわ!
きっと運命の人が私を呼び寄せているに違いないわ!
もしかして前世の絆とか……? うふふ、楽しみでしかたないじゃない!
テントを飛び出した私の背中を見送りながら、ダフクロちゃんと月光が会話するのが聞こえてきた。
「でも、アリアさん、あんなにお薬を飲みすぎて大丈夫なんでしょうか……?」
「大丈夫。あれ、ただのブドウ糖だから。ラムネ」
「へっ?」
なんて言ったか、声が遠すぎて私には聞こえなかったけど。
そんなことより、私は立ち止まっていられない。
だって、運命の人が私を待っているんだから!
そうよね? 待ってて、マイ・ダーリン!
原案:高羽 彩 小説:石原 宙 イラスト:ainezu