昨夜の大規模な戦闘から打って変わって、今日は穏やかだ。
なだらかな山の斜面に腰掛けて、風が短い草花をなでながら山肌を渡っていくのを見ている。
「いい風……」
乾いた風が、私の腰まで届く長いおさげ髪を揺らした。
辺りに少しだけ咲いている、可憐なアルペンローゼやキンポウゲ、ワスレナグサなどの高山植物が一斉にお辞儀をしたように見えて、つい口元が緩んでしまう。
こんな日はパンパイプを吹いて、羊たちを追いたいな。
目を閉じると、平和だった頃の光景が瞼の裏に浮かんでくる。
草を食む子羊の群れ。遠くから聞こえる羊飼いの笛の音。
昼食を知らせるカウベルの音がして、開いた小屋の窓から焼けたパンとチーズの香ばしい匂いがしてくるの。
「ふふっ」
想像するだけでとっても楽しくて、思わず笑みがもれた。
だけど、それは幻。
息を吸い込んで鼻をつくのは、パンやチーズの匂いなんかじゃなくて、木々の焼け焦げた匂いや微かな硝煙の匂い。
パンパイプだって、今は吹くことさえ出来ない。
だって、その美しい音色がD2を呼び寄せてしまうもの。
眼下に小さな村が見えた。
すでに人の住まなくなった、寂れた村。
ここへ来る前に少しだけ寄ったけど、家々に飾られたクリスマスツリーや壁掛けのスワッグがそのままで、けれど見るからにひどく古びているのが痛々しかった。
住んでいた人たちは、あの飾りとともに、クリスマスを祝えたのかな。
またすぐ戻ってこられる——そう思って、飾りをそのままに村を去ったのかな。
だとしたら、彼らがあの飾りに託したささやかな想いは、未だ果たされることなく、もう何十年も時が経ってしまったことになる。
知れず、右の目からポロリと涙が零れ落ちる。
右の赤目は泣き虫だった。
私は少し歩いて、流れる小川を見つけると、川面に自分の顔を映す。
私の右目はルビーのように赤く、反対に左目はアクアマリンのように澄んだ青をしていた。
オッドアイ、というのだろうか。
初対面の人には、たいてい「綺麗ね」だとか「変わってるね」と言われた。
右の赤目がまだ少し潤んでいた。
この赤い瞳は、いつだって悲しい物語ばかりを見てしまう。
私は無理に笑顔を作って、独りごちる。
「えへへ……こんなところを『ベルキス』さんに見られたらまた怒られてしまいますね」
『くるみ割り人形』さんに見られたらさぞ心配されるでしょうし、『アリア』さんに見られたら「私の方が泣きたい気分なのに……」だとか言って、私以上に泣き出しそうです。
そんなことを考えると、少しだけ可笑しくなって、右手の甲で目のあたりを拭った。
……私は大丈夫。
“悲劇”を映す赤い目とは違って、私の左の青い目は“希望”を映し出す。
みんなは信じてくれないけど、私には“未来”が見えるときがある。
見えるって言うほどハッキリしたモノじゃないけど、ぼんやり絵が浮かぶというか、直感とか閃きに近いもの。
きっと、引っ込み思案な私のために、楽譜が与えてくれた不思議な力なんだと思う。
過去には、赤い瞳が、“悲劇”ばかりを見せることもあった。
むしろそんなことばかりだった。
そして現実はその通りになった。
たとえば、D2との大きな戦争とか……
いっそこの瞳を潰してしまえば——そう思ったことさえあった。
だけど、今回は違う。
私の左の青い目が見た“希望”とは——指揮棒を携えた、まだ見ぬ誰かの影。
その影はやがて眩い光を放ち、この涙に濡れた世界を明るく照らす。
そして、私たちを平和で、笑顔のあふれる世界へ導いてくれる。
私は昨晩——朝と夜の狭間、戦闘疲れでまどろむ意識の中で、確かにその光を見た。
きっとその人はじきに目覚める。
そんな予感がした。
川面に映した青い目が、きらりと光った気がした。
こぼした涙も乾かぬうちに、口元が緩んだ。
このこと、誰かに伝えた方が良いのかな?
またヘンなこと言い始めたとか言われるかな?
それでも、今回の予感は特別に思えるし……
うーん……
うーん…………
「決めた! 行こう!」
だって、良い知らせなんだから、人に伝えたい!
「またあいつがデタラメを言ってる」って、馬鹿にされたっていい!
私は、顔を上げて走り出す。
長いスカートを翻し、三つ編みに結った二つのお下げを揺らしながら。
枯れた短い草を踏み、露わになった岩肌を飛び越えて、斜面を駆け下りていく。
だけど——その途中でぴたりと足を止めた。
ふと、右頬が冷たいことに気づいたからだ。
「え……?」
右頬に触れると、その指が濡れていた。
これは雨?
そう思って空を見上げた。
いつのまにか空は暗く、厚い雲に覆われていた。
今にも雪や雹でも降りそうな空模様だけど、まだ降り出してはいなかった。
だけど頬は濡れていて——これは涙だと理解した。
いつの間にか、赤い瞳がまた涙を流していた。
「この涙はなに……?」
赤い瞳は、私になにを伝えようとしてるの?
「っ……!」
すると、一瞬のうちに暗い影が脳裏をよぎった。
沢山の別れ、痛み、苦しみ、困難……
そんなイメージが次々と浮かんでは消えた。
どうして?
私の青い瞳は、“希望”を見せてくれたはず。
だけど、それは同時に“悲劇”の始まりだとでも言うの?
あの指揮棒を携えた、まだ見ぬ誰か。
あなたはいったい誰なの?
空はさらに暗くなり、風も湿り気を帯びてきた。
気温が下がったせいか、寒気がした。
「……ううん!」
だけど私は頭を振り、また斜面を駆け下り始めた。
赤い右目をぎゅっと瞑った。
青い左目でまっすぐ前を見た。
私に“未来”が見えようと見えまいと、本当のところはどうだってよかった。
見たものが本当なのかどうなのか、どうだっていい。
私はただ、来るかわからない“未来”に翻弄されたくなかった。
自分で未来を切り開く、そんな強さがほしかった。
私は走りながら待とう。
強くなりながら待とう。
まだ見ぬ誰かの指揮棒が、私の信じる未来を正しく指し示してくれることを。
原案:高羽 彩 小説:石原 宙 イラスト:tef