——小さい頃、どこまでも追いかけてくる月の光が怖くて、一晩中逃げ回ったことがあるんですよ。
昔、一人のコンダクターが、そう言っていたのを覚えている。
まだ20代と若かったけれど、経験的には中堅で、指揮棒一つを武器に、いくつもの修羅場をくぐってきた青年だった。
月の光は人を狂わせる。
伝承に聞く、狼男や、吸血鬼しかり。
月の光を長く浴びすぎた人間は、狂気に魅入られるという。
“月の光が怖い”。
その感覚は、私にも少しわかった。
——じゃあ私のことも怖い?
私は『月光』。
ベートーヴェン作曲のピアノソナタ第14番『月光』の楽譜を身に宿したムジカート。
私は無愛想で、無機質で、いつもなにを考えているのかわからないと言われていた。
人によれば、不気味に見えたことだろう。
戦いに夢中になると、周囲を巻き込んで怪我をさせることもあった。
まるで月の光に魅入られたように、私は戦いを愉しみすぎることがあった。
なのに、彼は笑って言うのだ。
——いいえ。まったく。
片方の肺が破れたせいで、呼吸もままならず、喉の奥からヒューヒューと苦しげな音を漏らしながら。
胸に修復不能の穴があき、赤黒い血が彼の全身を染めていた。
予期せぬD2の襲撃で、幼い子どもが多く住む難民キャンプを守るために無理をした。
私は彼を守れなかった。
——最期にあなたと戦えてよかった。
なのに、どうして私にそんなことを言うのかと、不思議だった。
夜の森。凍てつく寒さ。白い息。
月明りに照らされて、音楽に仇なす怪物が、耳障りな断末魔の叫びを上げる。
相変わらず、ひどい不協和音。
「……これで終わり」
くるりと私が背を向けた先で、身の丈4〜5メートルほどある大型のD2が、2体、3体と夜の闇に消えていった。
静寂。
鼻からゆっくり息を吐くと、足元から首筋にかけて、ゾクゾクッと快感が駆け上がる。
知らず、口元にわずかな笑みが浮かんでいた。
「さすが『月光』。夜の女王はあなたですわね」
「……『ベルキス』」
背後から、言葉の割に居丈高な声。
いつの間にか、私の背後に立っていたのは、私と同じムジカート、『シバの女王ベルキス』だった。
もしかしたら、単騎で3体の大型D2を相手にしていた私の援護に来てくれたのかもしれない。
言うまでもなく、その必要はなかったけれど。
彼女を振り返る前に、指先で口の端に触れ、愉悦の残り香を消す。
こんな冷えきった戦場で、悦びを感じてしまうのは悪癖だと、そのくらいはわかっていた。
「ベルキス。無駄口を叩いてる暇があるなら、一体でも多く敵を倒してきてくれる?」
「あら? わたくしのは暇じゃなくて余裕って言うんですの」
「……減らず口」
ベルキスは、“女王”の名を持つだけあって、いつも高慢で尊大なポーズを崩さない。
腕を組んで胸を張り、あごの先をツンと上げたおきまりの姿勢で、余裕綽々といった風に話す。
心の内はどうなのか、わからないけど。
「私はいいから、『アリア』の方を見てきて。あの子、今日はなんだかハイになってたから」
「……落ち込んだりハイになったり、忙しい子ですわ」
ベルキスはため息をもらすと、
「弱き者を守るのも、女王の仕事ですわね」
そう言って満足そうに笑うと、空高く跳躍し、森の木々を揺らしながら、またたく間に去っていった。
ベルキスは、とてもわかりやすいムジカートだと思う。
言ってみれば、扱いやすい。
私みたいに、「得体が知れない」だとか、「森の幽霊」だとか、「つかみ所がなくてルツェルン湖の霧のよう」だなんて言われるムジカートとは違う。
別に、気にしてはいないけど。
すると、少し離れた地面から、うめき声がした。
「くっ……うぅ……」
「あ、気がついた?」
私は、うめき声の主の元へ、小走りに駆け寄った。
「平気?」
「すみません……俺、なにもできなくて……」
「いいよ。無事なら」
そこには、傷ついた若いコンダクターが仰向けに横たわっていた。
まだ顔は幼さを残していて、20歳にも満たない歳だろう。
当然、経験も浅い。
ただでさえ暗い森での戦闘は難度が高いというのに、彼の名前さえ知らない私と急造でペアを組むには荷が勝ちすぎた。
案の定、私とD2の戦いに巻き込まれて、大事な利き腕を負傷してしまった。
「こんな傷……すぐに直して、あなたと戦います!」
「ううん。君は十分戦った」
「でも、まだD2が……」
「心配いらない。今、救護班を呼んでくる。あとは私たちに任せて。良かったじゃないか、これで」
「なにがよかったんですか?」
「これで君は、クリスマスまでにはシンフォニカに帰れる」
「……!」
若いコンダクター君は、悔しそうに唇を噛んだ。
熱意はある。
けれど、経験不足のうえ、傷を負った自分がこれ以上無理をしても、きっと足手まといになるとわかっているんだろう。
賢い子だ。
彼は、「すみません」と言って、地面に顔を向けた。
悔し涙を隠しているのはすぐにわかった。
「悔しがることはないよ。この暗闇ではしかたない」
「じゃあ、どうしてあなたはこんな闇の中で自由に戦えるんですか?」
「それは……私の瞳が常に闇を見つめているからじゃないかな」
あのときからずっと。
かつての戦いで、私は積み上がる闇を見た。
仲間たちの死体の山。民間人の死体の山。
老いも若きも、子どもも大人も、判別できないほどの大量の赤黒い山。
あれは実体を持った、巨大な“闇”だった。
それからずっと、私の瞳は闇を見つめ続けている。
もはや暗闇に慣れすぎた。
光に背を向けて、お前の見つめるべきはこの“闇”だと、自分に言い聞かせ続けている。
私には、この月明かりさえ眩しすぎた。
それはときに、恐怖さえ覚えるほど。
ふと、昔聞いたあの言葉を思い出す。
——小さい頃、どこまでも追いかけてくる月の光が怖くて、一晩中逃げ回ったことがあるんですよ。
古来より、月は死者の国だと言われる。
だから、月の光は死者の呼ぶ声だ。あるいは死者が吐き出す怨嗟の声。
月を見ると、私が救えなかった人たちがこちらを恨みがましく睨んでいるような気がして、お前も早くこちらへ来いと囁いているような気がして、怖かったのかもしれない。
さすがに、一晩中逃げ回ったりはしないけど。
気がつくと、若いコンダクター君が、私の顔をじっと見ていることに気づいた。
地面に横になった彼からすると、彼を上から覗き込む私の顔の後ろにちょうど月があって、私は月明りを背負ったような格好に見えたはずだ。
彼は、呆けたように私を見ていた。微かに体が震えていた。
だから私は問いかけた。
「私のことが怖い?」
けれど、彼は「まさか」とばかりに首を振った。
目を丸くして、全身で否定する構えだった。
「とんでもない! じっと見てたのは、その……月明りを背負ったあなたがあまりに綺麗で……見とれてたからで」
「え?」
「あ、す、すみません、なんか急に! でも、怖いなんてまさか! あなたは美しくて強い。今だって、怪我した俺を巻き込まないように、離れて戦ってくれたじゃないですか」
確かにそうだけど。
でも、それだけのこと。
釈然としない様子の私に、彼は言って聞かせるように続けた。
「あなたのようなムジカートが守ってくれるから、俺たちは戦えるし生きられるんです。あなたはその名の通り、月光そのものだ」
「……月光そのもの?」
「はい。闇を照らす救いの光ですよ。いつも俺たちに勇気をくれる。散っていった仲間たちもきっとそう思ったことでしょう」
……。
彼の言葉が頭の中で何度も響いて、私は少しの間動けずにいた。
私は闇ではなく、光。
また思い出す。
私の前で死んでいった、月を怖れたあの青年コンダクター。
なぜ彼が私に向かって「最期にあなたと戦えてよかった」だなんて言ったのか、理由を尋ねたんだった。
彼はこう言った。
——あなたと出会って、月が怖くなくなったんですよ。
あの彼も、今の彼も、同じことを言っている気がした。
私はただ、守ったり、守れなかったりしただけ。
だけど、彼らは私のことを“光”と呼んでくれた。
私は踵を返し、どこまでも続く闇の先を見つめた。
遠くから、D2の耳障りな鳴き声と戦闘音が聞こえた。
背後に横たわる若いコンダクター君に言う。
「じゃあ、救護班が来るまで、そのまま安静にしてて」
「……はい。どうかご無事で」
「ありがと。君もね」
肩越しに振り返り、微笑んで見せると、私は暗い森の中を駆け出した。
闇が薄らいで、月明りが今までよりもはっきり見える気がした。
どこまでもついてくる月の光が、今は私を見守ってくれているような気がした。
原案:高羽 彩 小説:石原 宙 イラスト:あるてら