わたくしは司令部テントの軍幕を苛立たしげに手で払いのけると、いつもより高い足音を立てながら、ムジカート専用の兵舎までの道を歩きます。
「はぁ……このわたくしに説教をするなんて。あの方、神にでもなったつもりですの?」
ここはオーストリアのインスブルック。
イタリア国境にほど近い、チロル地方の古都です。第一次遠征隊のわたくしたちは、都市部から少し離れたノルトケッテ連峰の山岳地帯に駐留しています。
つい先ほど、わたくしは現地司令官に呼び出され、直々にお小言をいただきました。
理由を聞けば、わたくしとバディを組んでいたコンダクターが、心労により体調を崩し、隊を離れざるを得なくなったというのです。
なんでも、わたくしの昼夜を問わぬ“教育”に心身を病み、夜も眠れなくなった末、枯れ木のように憔悴してしまったそうで。
わたくしはただ、日常の一挙手一投足、フォークの上げ下ろしに至るまで、“わたくしのコンダクターに相応しい振る舞い”を教育して差し上げただけですのに。
——ひぃぃぃい! もうあいつを俺に近づけさせないでくれ!
——あいつは頭がイカれてる!
——『ベルキス』は人格破綻者だ!
最後にはそんなことを叫んでいたそうで。
誰が人格破綻者ですか。
わたくしほどの人格完璧者もいないでしょうに。
先ほどの現地司令官も、普段の厳かな面を苦々しげに歪めて、「お得意のコンダクター潰しはもうやめてくれないか」だなんて。
コンダクター潰しとは、どういう了見でしょう。お門違いもいいところです。
わたくしは教育して差し上げているだけだと、何度言えばわかるのでしょうか。
確かに、コンダクターは掃いて捨てるほどいるわけではありません。
むしろ数が限られていることは重々承知しています。
ですが、わたくしの教育がどれだけこの隊に良い影響を及ぼしているか、浅薄にして愚昧なる彼らは理解していませんわ。
ここは一つ、わたくしの教育を直々にお目にかけましょうと思い——
——司令官たるもの、人に物申そうと思うなら、もう少し言い方をお考えになられては?
——身だしなみにも注意をお払いになって。隊のトップが無精ひげとはいかがなものかと。
——それに、あと六つほど指摘事項がありまし……むぐっ! むぐぐっ!?
屈強な側近二人に口を塞がれ、羽交い絞めにされましたわ。
なんということでしょう。
話も途中だと言うのに、そのまま強引に背中を押され、司令部テントを追い出されてしまったわけです。
「まったく、無礼もいいところですわ!」
ぷりぷりとしながら地面を踏みつけ、さらに足音を高鳴らせます。
なぜわからないの?
わたくしはこれほど、この隊を良くしようと孤軍奮闘していますのに!
すると、進行方向に、休憩中の兵士たちが十数名、歓談しながらレーションの食事をしているのが見えました。
ちょうどいい機会です。
わたくしの“教育”の成果というものを確認してみましょうか。
「ごめんあそばせ?」
休憩中の兵士たちの間を、わたくしは優雅に両手を広げて通り過ぎます。
すると、兵士たちから次々と食べ物が手渡されます。
彼らの間を通り過ぎる頃には、色とりどりのお菓子やフルーツで両手がいっぱいになりました。
「ふふ、ありがとう。わたくしのかわいい教え子たち?」
わたくしは振り返り、満足げに微笑みます。
ほうら。これが“教育”です。
これでわたくしは、配給の列に並ぶ必要もない。
配給される糧食のほとんどは、化学調味料や合成植物の塊で、とても質がいいとは言えません。
わたくし自慢の教え子たちは、それらを避け、貴重な質のいいものだけをわたくしのために取っておいてくださるわけです。
わたくしが食べきれなかった分は、また別の兵士に分け与えればいい。
そうすれば、さらにわたくしの信奉者が増えていきます。
「なんとよくできたチームでしょう。皆、よく学ばれていますね」
わたくしが呟くと、どこからか気弱な声が聞こえてきました。
「あ、あのう……。それはただ、ベルキスさんにとって都合のいい人を育てているだけなのでは……」
「……『ダフニスとクロエ』」
『ダフニスとクロエ』。
モーリス・ラヴェル作曲のバレエ音楽。その楽譜を身に宿したムジカート。
名前がややこしいので、『ダフクロ』と略して呼ばれることも多いようです。
その彼女が、配給品のレーションをかじりながら、右斜め後方からわたくしを見つめていました。
わたくしはため息交じりに返します。
「よく見てみなさい。皆、わたくしに貢ぎ物をして、満足そうな顔をしているじゃない」
「そ、それ以上の人たちが、ベルキスさんの姿を見た途端、逃げ出していったような気がしますが……」
「……」
確かに、脱兎のごとく逃げ出した凡兵が数名いましたが、気にすることはないでしょう。
学ぶ意志のない者は、生きる意志のない者です。
そんな輩にわたくしの大事な時間を割くことはできません。
「『ダフニスとクロエ』? つまりあなたはなにを言いたいの?」
「い、いえっ……」
わたくしがキッと目を細めると、彼女はすぐに俯いて黙ってしまいます。
黙るくらいなら、始めからなにも言わなければいいのに。
揃いも揃って理解が悪くて、うんざりしますわ。
「いいですか? わたくしにとって相応しい振る舞いをするということは、世界にとっても相応しい振る舞いをしているということですわ」
そうして誰にも負けない兵士やコンダクターが生まれるわけです。
わたくしだって、わたくしに相応しい者を守るために、全力をもって戦います。
つまり、わたくしに相応しい者が増えれば増えるほど、常勝無敵の部隊に近づくのです。
こんな単純なことが、なぜわからないのでしょう。
わたくしは物憂げに首を振りつつ、いただいたアーモンドクッキーを一口かじります。
あまり美味しくはありません。
今は戦時下。使われるバターが少ないクッキーは、口の中がひどく渇きました。
「お茶」
「は、はいっ」
わたくしが片手を出すと、『ダフニスとクロエ』があわてて、自分の水筒からお茶を注いでくれます。
甲斐甲斐しくお茶の入ったマグカップを差し出しながら、彼女はまたおずおずと言うのです。
「あのう……こんな事を続けていたら、そのうち一人になってしまいますよ……?」
きっと彼女は、先ほど逃げていった凡兵のことを言っているのでしょう。
あるいは、わたくしの元から去っていったコンダクターもそう。
わたくしは一瞬間を置き、事もなげに答えます。
「もう一人よ」
『ダフクロ』はゆるく唇を噛み、そう言うわたくしの顔をじっと見つめました。
わたくしは淀みなく続けます。
「でも、いいの。望んでなったことだし。わたくしに相応しくない者と一緒にいる苦痛に比べたら、ずっといいわ」
「失う苦痛に比べたら……ですよね……?」
そう言う彼女の目は、怯えの色よりも、哀しみの色を帯びていました。
なにかしら。今日は、妙に食い下がってきますわね。
「なんですの、それ」
「い、いえ……。しょ、食事が終わったので私は行きますっ」
『ダフニスとクロエ』は、わたくしに背を向け、逃げるように走り去っていきました。
「……なによ」
わかったようなことを言わないで。
わたくしはただ、強い人を求めているだけ。
わたくしに相応しい人とは、礼儀礼節を知り、よく気が利いて、“決して死なない人”。
もし、わたくしが守り切れなかったとしても。
それでもちゃんと生き残ってくれる、強い人。
そう言えば、明日にはベルリンから新しいムジカートとコンダクターがやってくるらしいわね。
期待なんかしていないわ。
わたくしに相応しいコンダクターなんて、そう簡単に見つかるわけがないんだから。
でも、もし見つかったら。
その時はきっと、アクセサリーのように身につけて、決して離さないわ。
また、アーモンドクッキーを一口かじる。
二度、三度と咀嚼すると、すぐに口が渇いてきた。
辺りを見回すと、休憩中の兵士たちもすでに散会した後で、誰の姿も見えなかった。
知らず、呟きが漏れる。
「誰か……わたくしにお茶をくれないかしら」
原案:高羽 彩 小説:石原 宙 イラスト:イノオカ