ILLUSTRATION NOVEL #08

コツ、コツ、コツ——。

一定のリズムで、一つの足音が響いている。
なにものにも侵されない心地よい足音だ。

ここは、ベルリン・シンフォニカ。音楽堂の中にあるコンダクター居住区の廊下。
足音の主は僕——『ボレロ』だ。
フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの手によるバレエ曲『ボレロ』の譜を宿したムジカート。

すると、その調律された足音をかき消すように、廊下のあちらから騒がしい声がやってきた。
急いだ様子のコンダクターたちだった。それぞれが大荷物を抱えている。

「おっと、すまない『ボレロ』! 急いでいてね!」
「キミは準備万端かい? 『ボレロ』! あちらではよろしく!」

僕は一度立ち止まり、視線だけを交わすと、僕の左右両側を走り抜けていく彼らの背中を見送った。
そう。
今日は、数名のコンダクターが、D2の活動が活発化したオーストリアの戦線へと発つ日だ。
ただでさえ出発前は慌ただしくなるのに、天候の関係で急遽出発時間が早まったものだから、音楽堂はてんやわんやの様相だった。

コツ、コツ、コツ——。

それを尻目に、僕はまた一定のリズムを刻んで歩き始めた。
オーストリアへは、この僕も帯同するよう言われていた。
準備はすでに済んでいた。戦いへ行くのに、それほど必要なものもない。最悪、この体ひとつあればよかった。

コツ、コツ、コツ——。

少し歩くと、扉が開いたままの部屋があった。
中を覗けば、小柄な少年が一人。
彼は、本や日用品、旅行用バッグなどで散らかった床に座り込み、「あわわ……」だとか「うう……」だとか、たびたび苦悶の声を上げながら、段ボールにアレを詰めてはコレを出し、封をしたと思えばまた開けて——と、右往左往の限りを尽くしていた。
それは、テキパキと準備を進める歴戦のコンダクターたちとは一線を画す狼狽具合。
一端のコンダクターともなれば、多少の予定変更などでうろたえない。
僕は、その青ざめた少年の顔を見て納得した。
なるほど、彼は見習いコンダクターの——

「ニコラ・カヴァリエ」
「は、は、はいっ!?」

最近やっと耳に馴染んできた名前をつい口に出すと、彼は背骨にバネでも入っているみたいに跳ね上がり、背筋をピンと伸ばしてこちらを向いた。

「す、す、すぐに準備しますからっ! お待ちくだっ……っ! ……って……『ボレロ』か……」

一度カエルのように平身低頭し、それから顔を上げて僕を確認すると、はぁ……と大きく息をつき、全身で安堵の意を示す少年。
ニコラ・カヴァリエ。17歳。
細身。童顔。小動物のように怯えた目。
フランス系のファミリーネームだから、おそらくそちら系出身か。詳しくは知らない。

「先輩のコンダクターかと思ったよ……はは……」

ニコラは、声をかけた主が僕だったことに安心したのか、肩の力を抜いて、少しだらしない顔をした。
性格、気弱。意志も薄弱。優しいと言えば聞こえはいいけど、覇気に欠ける。
多少の予定変更でこれほど恐慌をきたすとは、先が思いやられる。けれど、彼の気持ちも少しはわかった。
今回の遠征は、いわば見せ場だ。オーストリアで戦績が認められれば、見習いから正式なコンダクターに昇進できる可能性もある。
今も滾々と流れ出るあの冷や汗の理由は、そのプレッシャーに違いない。
僕は立ち止まって思案する。

——なにか声をかけてやるべきか。

このままじゃろくに準備も進まない。
ただでさえ機敏なタイプではないのに、戦いに向けた重圧がさらに彼の手を鈍らせている。
僕は口を開きかけて、また噤んだ。

——いや、なにも言わない方がいいだろう。

だって、自分が声をかけることで、ニコラのペースを崩してしまうかもしれない。
誰にでも自分のペースがある。生きるリズムがある。
なによりも僕自身が、他人にリズムを乱されることを嫌っていた。
心臓の鼓動も、呼吸も、足音だって、常に一定であってほしい。
このリズムが乱されてしまえば、最適なパフォーマンスは決して発揮できない。
だから僕はいつも、自分の内側に耳を傾けた。
勝つために。
いつだって静かに、いつだって一人で、生死を分ける舞台に立ち続けてきた。
踊り子は、孤独の熱に浮かされて、初めて高く飛べるのだ。

そんなことを考えていると、とたんに周囲の喧噪が煩わしくなって、ポケットにしまっていたウォークマンを取り出した。
お気に入りの、古い音楽再生機だ。
そのイヤホンを耳に挿す前に、ニコラが僕に声をかけてきた。

「ご、ごめんボレロ! レーションと保存用の乾パン、どっちを持って行くべきだと思う!?」
「レーションと保存用の乾パン?」
「そう! バッグも段ボールももう一杯で、どちらかしか入らなくて……!」

そんなこと、半泣きになってまで聞くことだろうか。
そう思いながら、僕は淡々と答える。

「どっちも現地で支給されるから持って行かなくてもいいと思う」
「そうなの!? 僕よく分からなくて……。アヴリルに聞いても馬鹿にされるだけだし……」

アヴリルというのは、ニコラと同じコンダクター見習いだ。
性格はニコラとは正反対で、気が強く、自分に自信があるタイプ。
二人はまるで姉弟のような関係で、事あるごとにニコラはアヴリルの尻に敷かれ、やり込められていた。
僕は尋ねた。

「だからって、なぜ僕に?」
「え?」

尋ねるならほかにもっと適任がいるだろう。
ここはコンダクター居住区。経験あるコンダクターの先輩がたくさんいる。
ニコラは答えた。

「だって、ボレロ優しいから」

思わず、僕はぽかんとしてしまった。
僕が……優しい?
いつだってマイペースで、他人に干渉せず、仲間たちから冷たいと言われたことはあっても、優しいだなんて言われたことはない僕が?
黙りこくった僕を見て、ニコラがあわてて言った。

「ご、ごめん! 僕、なんか変なこと言った!? あ、えと、それに、ボレロに聞いたのは、オーストリアじゃ組んで戦うようにって言われてたから、そのこともあって……!」

両手を振って、弁解するみたいに。
確かに彼の言う通り、遠征先ではしばらくニコラと行動を共にするように言われていた。
僕が見習いコンダクターのお世話係に向いているとは、とても思えないけど……。

——いけない。

優しいだなんて予想外のことを言われて、ついペースを乱されてしまった。
この、まだ半人前のコンダクターに。
彼は未熟なのだ。未熟だから、自分の欲している優しさを、パートナーである僕に投影してしまったのだ。
ただ、それだけのこと。
僕は僕。彼の主観は関係ない。
これまでも、これからも変わらない。

「なにか手伝おうか?」

そう僕が言ったのは、優しい人を求める、彼の期待に応えるためじゃない。
自分のペースを取り戻して、ただ余裕ができたためだろう。
もしくは事務的な要請。
このまま準備が遅れて、彼が遠征に間に合わないことにでもなったら、作戦全体に影響が出る。
そちらの方が、僕にとっては都合が悪い。
だけど、ニコラは違う受け取り方をしたらしい。

「ボレロ……! やっぱりボレロは優しいね……!」

また、じわりと涙目になっていた。
だらしなく鼻をすすり、感極まった顔をする。
それを見て、僕は自分の感情が再びざわつくのを感じた。

ムジカートとコンダクター。
コンダクターとの関係を深めることで、戦闘パフォーマンスも上がると主張するムジカートは多い。
けれど、僕はそれを信じていない。
だって、関係が深まるということは、自分のペースを乱されるということだ。
心の領域侵犯だ。
他人と心を通わせるなんて、せっかく美しく凪いだ湖面に絶えず石を投げ込まれるようなもの。
そんな悲惨なことはない。
僕にとってデメリットでしかないわけだ。

——それに。

——戦場でパートナーを失う苦しみは、もう味わいたくない。

「やっぱりやめた」
「え!? どうして!?」

僕が申し出を取り下げると、ニコラは目を丸くして、悲しげに細い眉を寄せた。
僕は続けた。

「君、今度の遠征で戦果を上げたいんだろう? 荷造りもまともに出来ないようじゃダメだと思うから」
「あ……。そ、そう……だよね……」

がっくりと肩を落として、下を向くニコラ。
そして、また荷造りの続きを始めた。
しょぼしょぼと、ため息まじりに。
僕はそれをただ眺めている。

僕は常々、共に戦う者には、僕と同じく孤独であってほしいと願っていた。
なぜなら、孤独に耐えられる者にしか奏でられない音色があり、僕はそんな音を愛しているからだ。
それはちょうど、『ボレロ』という曲を構成する、二つの旋律のように。

『ボレロ』という曲は、一定のリズムに乗せて、最初から最後まで、ひたすら二つの旋律が繰り返される。
二つの旋律は、互いにおもねらない。寄りかかりもしない。
あくまで交互に、重ならず、自らを力強く主張し続ける。
けれど、最後には分かち難く結びつき、周囲を巻き込む熱狂を生む。

いつか、自分と似た孤独を背負った人間に出会えたら。
その時には共に奏でよう。気高く熱い孤高のシンフォニーを。
今は、まだその時じゃない。

コツ、コツ、コツ——。

ニコラの部屋に背を向けて、僕はまた廊下を歩き出した。
喧噪を嫌い、ウォークマンのイヤホンを耳に挿し込んだ。
微かな音量で、『ボレロ』のメロディが聞こえてきた。
静かに、けれど熱く、心臓を叩くような旋律が胸を震わせた。

コツ、コツ、コツ——。

一定のリズムで、一つの足音が響いている。
僕だけの足音だ。
それは、なにものにも侵されない心地よい足音——のはずなのに。

ふと気になって、片方のイヤホンを外し、その足音に耳を傾けた。
未完成の音がする、そう思った。

コツ、コツ、コツ——。

僕の足音が、一つだけ。
それはなぜだか、もう一つの足音を探して彷徨っているようにも聞こえた。

ILLUSTRATION NOVEL #08
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