ILLUSTRATION NOVEL #01

ティーポットを傾けると、カップに流れ落ちる小気味良い湯音とともに、紅茶のふくよかな香気がわたしを包みました。
立ち上る湯気越しに、眼下に広がる街並みが見えます。
ここは、“ベルリン・シンフォニカ”の食堂テラス。

ベルリン・シンフォニカは、D2の侵略を受けた人類が、荒廃する地上から逃れるように作り出した、地下都市です。
今は午後3時を過ぎた頃。見上げれば、雲ひとつない青空と、沈んでいく太陽が南西に見えました。
意識しないと気づきませんが、これは本物の空ではありません。
ここはベルリンのはるか地下。あの空は、巨大な天井に映し出されたフォトリアルの極致たる映像なのです。
この、生活圏であり、謎に満ちた要塞でもある街のことを、“人類最後の希望”と呼ぶ人もいます。

「……平和ですね」

紅茶を少しだけ口に含むと、わたしはカップを置き、ひとり呟きます。
ここ数ヶ月、ベルリン周辺ではD2の襲撃もなく、比較的穏やかな日々が続いていました。
ついにクリスマスシーズンがやってきたこともあり、どことなく街全体が浮ついた印象です。

ドイツの人々にとって、クリスマスは特別なお祭り。
クリスマスマーケットが名物で、街のあちこちに可愛く飾られた屋台が立ち並び、手作りのオーナメントやお菓子、グリューワインなど、様々なものを買うことができます。
あちこちで音楽が鳴り、笑顔の絶えない一ヶ月。
それが、ここベルリンのクリスマス——でした。

“人類滅亡”
この言葉がちらつくこの世情では、かつてのようにはいきません。
地上の街の惨状は、目を覆いたくなるばかりです。
ですが、年に一度のお祭りなのです。
細々とでも、人間の営みがなされ、地上に笑顔が戻ることを、わたしは願ってやみません。

不意に、わたしの背後で、誰かが言い争う声が聞こえました。

「おい、『こうもり』! それはあたしのお気に入りだぞ! 返せよ!」
「これは冷たいですねえ、『木星』さん? クリスマスシーズンだってのに前線へ送り込まれる可哀想な私に、少しくらい慈悲の心を持ったっていいじゃありませんか」

『木星』と『こうもり』の二人でした。
どちらも、ベルリン・シンフォニカ所属のムジカート。
木星は、いつも元気いっぱいで、戦場に勇気と推進力を与えてくれるムジカートです。
紅茶で言うなら、力強さと癖のなさを併せ持つアッサムというところでしょうか。
一方のこうもりは、少しばかり皮肉屋ですが、持ち前の遊び心で、わたしたちに知性と心の余裕をもたらしてくれます。
言うならば、カカオとシナモンを加えた軽妙なスパイスティー。

そんな二人は、小さな花束のようなものをかけて、言い争っているようでした。
わたしは騒がしい二人を横目で見ながら、ゆっくりカップを傾けました。

「それは『きらきら星』があたしにくれたんだぞ!」
「借りるだけです、借りるだけ。だって戦地へ行くんです、お守りくらい欲しいじゃないですか」
「そりゃ、そうだけど……お前はお守りなんてガラじゃないだろ?」
「ええ、その通り。ですが前線へ行くのは私だけではなく、コンダクターもいるでしょう? コンダクター用、ですよ」
「ぐぬっ……!」

そう言われると弱いようで、木星は眉根を寄せて、少しだけ口を尖らせました。
こうもりの言った“前線”とは、オーストリアのことでしょう。
D2の激しい襲撃を受けているその場所へ、ここベルリンからも何名かのムジカートとコンダクターが送り込まれると聞いています。
こうもりは、してやったりという顔で、見えないように舌をぺろりと出し、食堂を逃げるように出て行きます。
木星は、どこか納得いかないものの、観念した表情で、とぼとぼとその後をついて出て行くのでした。

木星の気持ちはわたしにもわかりました。
世界各地で戦渦は広がり、前線では多くのムジカート、コンダクターが命を落としています。
特に、“ただの人間”であるコンダクターは……。

これからオーストリアへ送り込まれるコンダクターの中には、まだ見習いの少年少女もいるようでした。
新しいコンダクターを育てては、それ以上に死んでいく彼や彼女たち。
まるで生と死のいたちごっこです。
コンダクターがいれば、ムジカートは通常以上の力が発揮できます。
ですが、その代償が彼らの命では、あまりにやりきれません。

わたしは、にわかにざらついた気持ちを落ち着けようと、紅茶を口に含みました。
わずかな草いきれと、爽やかな花のような香り。
瞬間、いつかわたしの横を通り過ぎていった、もういないコンダクターの背中が思い浮かびました。
香りと記憶というのは、脳の深いところで結びついているそうで、ある香りを嗅ぐと、特定の記憶が呼び起こされることがあるようです。
もしかしたら、わたしがこの紅茶を飲んでいた時に、出撃していくその人の背中を見送ったのかもしれません。

ふと、思い出しました。
このベルリン・シンフォニカのさらに地下には、とある曰く付きのコンダクターが眠っているそうです。
世界に災厄をもたらしたコンダクターが懲罰として眠らされているとの噂もあれば、世界を救う大きな力を持つために、その時がくるまで眠っているとも言われます。
眉唾ものと笑う人もいるでしょう。
ですが、わたしはその噂に、どこか心引かれるものを感じていました。
理由はわかりません。
ただ、その人を、とても他人とは思えないのです。

もし、地下に眠るその人が目を覚ましたら。
そして、わたしのコンダクターになるとしたら。
その時は、わたしのお気に入りの紅茶をブレンドして、挨拶代わりにもてなしましょう。
お茶請けの菓子に……タルトタタンでも添えて。

わたしが、いつまでも彼のことを忘れないように。
彼が、いつまでもわたしのことを忘れないように。

そして、その紅茶を——“運命”とでも名付けましょうか。

ILLUSTRATION NOVEL #01
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